昨今増えている、自殺する芸能人たち

社会

相次ぐ芸能人の自殺

流行った、有名アニメ映画の声優をやり、歌手、俳優としても活動していた神田沙也加が35歳の若さで突然逝去した。

まだ確かなことは分かっていないが、遺書ではないが、書置きがあったらしく、自殺なのではないか、とされている。

数年前、誰もが知る俳優の三浦春馬、竹内結子も自殺し、元ミスユニバースの芦名星も自殺してる。

なぜ死ぬんだ、と思う。

もちろん、有名人以外で、自殺している人達がたくさんいるのは分かっている。

年間2万人いる自殺者の氷山の一角であることは間違いない。

しかし、どこか知らないふりをしているようで、彼らのような有名人の自殺によって、自殺ということの無念さを身近に感じさせられている。

なぜ死ぬ?

なぜ、まだやろうと思えばいくらでもやれる、こっちからみたらどん底では決してない、むしろ、何でもやりたいことはやれるような、むしろ恵まれているような立場でなぜ死んでしまう?

仕事だからニコニコしていても、裏では嫌で嫌でしょうがなかったのか?

人知れずプレッシャーを感じて、一人で背負って、誰にも相談できず、死んだら解放されると思ってしまい、魔がさしたのか?

はたまた恋人にふられたのか?

近親者や大事な人が亡くなり、生きていてもしょうがないと思ったのか?

きっと、冷静になれば、やらなかったのかもしれない、ただ、その時の精神状態が盲目で、その時に死ねる状況だったから、そうなってしまったのかもしれない。

和田アキ子は、情熱大陸で、自殺未遂をしたことがある、と言っていた。

和田は自身のコンサートに対する責任感が強く、お客さんの前ではちゃんとしなければいけない、というプレッシャーから、毎回リハーサルや練習には神経を張り巡らせて望んでいて、いつも飲んでいる睡眠導入剤を大量に飲みさえすれば、それから解放されると思い、思わず大量に飲んでしまったそうだ。

意識がもうろうとして、やばいと冷静になって吐き出し、事なきを得たらしい。

死んだら終わりだ、という簡単なことすら、そんな精神状態においては、もう優先順位には上がらないのかもしれない。

本当は、彼らのような芸能人なんて、選ばれた人達しかできないのではないかというくらい、成功して満足に食べていくだけでも難しい、倍率が高い仕事で、普通の仕事ではありえないほどたくさんの色んな人達を楽しませ、感動を与えたり、勇気づけたりすることが出来る、憧れる人も多い仕事だろう。

なりたくてもなれなくて、あきらめて辞めていく人がどれだけいるのか分からない職業で、素人考えでは、彼らのような表向きの成功者は、普通は死ぬなんて考えつかないんじゃないかとすら思ってしまうが、彼ら自身の精神状態はそうではないんだろう。

むしろ、この人いいな、と思っていた人ほどあっさりと死んでしまう。

もし、目の前に、自分の事をキラキラした憧れの目で見る子供がいれば、自殺はしてなかったかもしれない。

お客さんが、いかに感動したか、心動かされたか、ということをダイレクトに言葉でも表情でも、声でも、感じれたら、死ななかったかもしれない。

しかし、そういう場におらず、明日、自分がそんな彼らの良い評価を得たい、得なければ自分に価値はない、ましてや調子の悪いこの状態ではそれは叶わない、などと思ってしまったら、魔がさすこともあるかもしれない。

ある意味、責任感が強いことで、優先順位が狂ってしまったとも言えるかもしれない。

もしくは、お客さんなど関係なく、お客さんがいくら「良かった」と言っても、自分では満足できず、今の自分に絶望して、ということもあるかもしれない。

死にたいまま生きるという選択

彼らを腐すわけではない、彼らの思考というもの、自ら命をたったその最後の行動も、彼らの生涯全てをひっくるめて、彼らがそれを選んだんだから、ということで、尊重したいとは思う。

彼らの魂が、最後の行動によって汚されるわけでは決してない。

むしろ、よく生きたと思う。

彼らが生まれてこなければ、自殺すら出来なかった訳だから。

人生は、長く生きればいいというものでもない。

しかし、これらの言葉は、自殺をしてしまった人達に送る言葉であり、生きている人に対して、自殺をするための免罪符として使って欲しくない。

生きている人に対しては、死ぬなと言いたい。

どういう理由で死にたいか、というのは人によって違うから、全部同じには言えないが、どうしようもない肉体的な痛み、辛くて辛くてしょうがない肉体的痛みから解放されたい、などという理由以外であれば、私のエゴかもしれないが、生きて欲しい。

本人たちにとっては、その精神的な痛みが頭からこびりついて離れないのはよく分かる。

しかし、精神的な痛みは、考え方や哲学を知ることで、環境を変えてしまうことで、いくらでも劇的に変わり得ると、私は信じてやまない。

死にたいくらい辛い思いをしたが死なず、何度も乗り越え、自分の心と向き合いながら生きている人間は、人の心を突き動かすことが出来る。

これはきれいごとではなく、揺るぎのない事実である。

そんな経験をしていない人間よりも、他者の気持ちをより理解し、深い人間性を得て、人前に出る仕事ならなおさら、その表現は重厚になり、より多くの人の心を揺さぶる。

そうやって獲得した深い人間性は、どんな仕事をしている人であれ、財産以外の何物でもない。

そういう痛みを知った人は、同じような境遇の人を癒し、光となる。

もし、近親者の死により、死にたいと思っているのなら、亡くなった人は、残された人に生きてもらいたいと思っていることを知るだけでいい。

私が死んだら、そう思うからだ。

その人が生きていて欲しいと思っているなら、生きればいい。

生きる理由をその人のせいにして生きればいい。

今まさに死のうとしている人達が、どういう理由で死のうとしているのかは分からない。

しかし、生きることを強く勧めたい。

そもそも、死にたい、と思うこと自体が、悪いことでは決してない。

死にたい、消えたい、自分を消し去ってしまいたい、という気持ちは、人間だけが持ちうる特殊だが、誰しも持ちうる感情で、自分の事を誰よりも厳しく見て、自分を責めることから起こる気持ちだろう。

良く言えば誠実で繊細、悪く言えば過敏で弱い。

しかし、落ち込むからこそ、その跳ね返りが大きい訳で、落ち込まない人間が、深いわけでは全くない。

自分の非を全て認めた上で落ち込まない人間は本当に強い人間だが、大抵がただ鈍感で、言われている事や自分の状況が理解出来ていないから落ち込まないだけだ。

何度も落ち込んで強くなった人間と、元々鈍感で落ち込まない人間と、どちらが魅力的かは言わずもがなだ。

だから、死にたいという気持ちを抱えた上で、なお生きる、という強い選択、自然な選択を、多くの人が選ぶことを心から望む。

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